日系カナダ人の歴史

1877
日本からカナダに来た最初の日本人は永野萬蔵で、ニュー・ウェストミンスターに到着。

最初の日本人移民
永野萬蔵は、まだ日本が鎖国をしており外の世界に門戸を開けていなかった1855年に生まれた。長じて、地元長崎で大工見習として働き始めた頃には、日本 は門戸を開放し、近代国家を築くという難題に立ち向かっていた。永野萬蔵は22歳で、船の修繕や改造に携わるようになった。いつかはカナダへ行ってみよう と決心したのはこの頃である。横浜を出港する英国船に貨物と一緒に隠れ、萬蔵は1877年5月にBC州ニューウエストミンスターに上陸した。

萬蔵はまず、フレーザー河で鮭漁を3年続け、それからバンクーバーに移り、木材を貨物船に積み込む仕事をした。1884年には日本へ戻り、上海まで出かけ、再び太平洋を渡ってシアトルに落ち着いた。シアトルでは煙草屋とレストランを始めた。

1892年になると、ビクトリアに引っ越してきて、小さなホテルと商店を開業した。その後は他の商売にも手を染め、塩鮭を日本へ輸出する事業も行っ た。財産を築き、カナダの日系人コミュニティで影響力を持つようになった。後になって、萬蔵は、財産や事業を一括取りまとめ、ビクトリアのガバメント通り を唯一の拠点とした。ところが、結核にかかった上に、1922年に火災にあい、全財産を失った。落胆した永野萬蔵は家族ともども日本へ戻り、まもなく68 歳でこの世を去った。

現在、カナダにはその子孫が数名、在住している。

1977年に、日系カナダ人100周年記念の一環として、BC州の山が、移民第一号であった永野萬蔵にちなんで命名された。

マンゾウ・ナガノは、標高約1950メートル、沿岸山脈にあるオイケノ湖を見下ろすようにそびえる山で、バンクーバーから北西におよそ400キロメートルの場所にある。ここは日系カナダ人が漁業の先駆者達が活躍した太平洋岸のリバーズ・インレットの地域にあたる。

1889
最初の2世、カツジがオーヤ・ワシジとヨウの子供として生まれる。この年、バンクーバーに日本国領事館が創設される。

1897
日系漁者団体がスティーブストンで設立され、初代の会長には本間留吉がなる。

1906
最初の日本語学校、バンクーバー共立日本国民学校(現バンクーバー日本語学校並びに日系人会館の前身)が439アレキサンダー通りに設立される。バンクーバーの公立ロード・ストラコーナ学校では初めて日系人生徒が白人生徒と一緒に学ぶ事を許される。

1907
9月9日、バンクーバー市内で、白人至上主義者達が集結し、日系および中国系の居住区に乱入事件を起こす。パウエル街は膨大な被害を受ける。この白人達による暴動は、バンクーバーのアジア系労働者によるゼネストにつながる。

1912
野球のチーム「アサヒ」が結成される。チームはたちまち、犠牲打、盗塁、守備などのうまさで有名になる。ローワー・メインランドで一番有名なチームになり、日系以外にも大勢のファンを持つに至る。

第一次世界大戦 1916-1917
カナダへの忠誠を示す為、200人以上の日系がカナダ軍隊に志願する。ブリティッシュ・コロンビア州では拒否され、その内195人(内194人は一世、一 人の2世はジョージ上原兵卒)はアルバータ州に行き、イギリス軍附属のカナダ歩兵隊に受け入れられ、ヨーロッパの戦場に送られる。戦死者54名、負傷者 92名。

1920
ヴィミーの尾根(第1次大戦の激戦地)の戦いから3年後,日系カナダ人戦没者記念碑がスタンレー・パークのランバーマン・アーチの近くに建てられる。砂岩 の柱の上には大理石で出来たランプがあり、永遠の炎が燃える。カナダ派遣軍第52歩兵隊の、ヤスゾウ荘司退役軍曹曰く「我々はカナダに対する感謝の気持ち を忘れません。そして、イギリスが共通の敵に戦線を布告した時戦えた事を誇りに思います。」

1922
日系人及び非日系人が通っているスティーブストンのロード・ビング分校はBC州で始めて、そして唯一の日系カナダ人の教師を雇った学校となる。ただし、ヒデ兵藤教師が教える事を許可されたのは、日系カナダ人生徒のみ。

1926
野球チームの「アサヒ」はターミナル・リーグのチャンピオンを勝ち取る。この後、15年間、度々優勝する。

1928
日本政府とカナダ政府との間で外交関係樹立が合意される。この合意に基づき、日本国は1928年7月20日オタワに公使館を開設する。

1929
東京にカナダ国公使館が設置される。

1930
バンクーバー島シメイナスのシゲ吉田は大英帝国において始めて日系カナダ人のボーイ・スカウト隊を結成する。5年前に、現地のボーイ・スカウト隊に参加す る事を拒否された彼は、通信による独学で勉強し一番高い位を獲得し、アメリカのボーイスカウト協会から独自の隊を結成する許可を得る。

1938
「日系2世の声」のモットーを掲げて「ニュー・カナディアン」という英文の新聞が発行される。

第二次世界大戦

23,303人の日系人口の内75.5%はカナダ市民(内60.2%はカナダで生まれ14.6%は移住後の市民権獲得者)。

1941
日本が真珠湾を攻撃しカナダは日本に戦線布告する。戦時措置法(緊急勅令PC9591)により、2月7日までに日本国籍者は全員敵性外人として登録しなければならなくなる。

カナダが日本に宣戦布告したため、カナダ海軍により、1200隻におよぶ日系の漁船は没収される。全ての日本語学校は閉鎖され、保険は解約される。 RCMPにより、3社が出していた日本語新聞は全て廃刊になる。「ニュー・カナディアン」紙のみが発行を許可され、同紙は日英両語で発行されるようにな り、日系社会のニュースや政府の政策指令の情報源となる。

日系カナダ人戦没者記念塔の炎が消される。

1941年、カナダが日本に宣戦布告した後、西海岸在住の日系には、次の5つの選択が与えられる。

1 特定の「保護地域」への自由移住

2 男性は、道路建設現場の強制労働収容所に移動させられるが、この試みは、男性が残して来た女子供達を心配したため労働に集中できず、短命に終る。

3 生活援助を得られない女・子供達には、BC州内陸の収容所に移住する選択が与えられる。彼らは後日、強制労働収容所に入れられていた男性達を迎え入れることになる。

4 日系は、国内の殆どの地域における敵意に直面し、東部カナダへの移動をせきたてられ、多くの人達がこの方法を取る。

5 アルバータ州やマニトバ州の砂糖大根農場の契約労働者となれば、家族が同居出来たため、3,700名がこの選択を行う。

各収容所への大挙移動はブリティッシュ・コロンビア保安委員会 (BCSC) が企画し、連邦警察(RCMP)により実施される。殆どの収容所はクートニーズ地方のゴーストタウンにあった。収容所は一時の間に合せか、BCSCから任 命された現場監督の下で、日系の大工や職人達により土台から建造されたものである。収容所に入れられた人々は、間に合せの住居に放置され、コミュニティの 組織作り、学校の開校、リクリエーション、食料の生産などは彼らの手で自ら行われる。

1942年3月16日、ローワー・メインランド以外の沿岸地域に在住していた日系が、仮収容所となったバンクーバーのPNEヘースティングズ・パー クの屋内家畜収集場に到着し始める。3月25日までには1,593名が入居。「ヘースティングズ・パークには最盛期の9月1日、3,866名が滞在し、計 8,000人もの人々が、様々な時期に仮収容された」。(ケン・アダチ著、The Enemy That Never Wasより)

1942
緊急勅令P.C.365により、ブリティッシュ・コロンビア州沿岸から100マイルの「保護地域」が敷かれ敵性外国人男性は全員その地域から出なければならなくなる。

日系カナダ人の集団強制移動が始まる。準備に24時間の猶予しか与えられない家族もいる。車、カメラ、ラジオなどは「保護処置」として没収される。夜間外出禁止例が布かれる。

この年末には約12,029人がブリティッシュ・コロンビア州内陸部の強制収容所に、945人が強制労働キャンプに、3,991人がさとうきび畑の強制労働者として、ロッキー山脈の東の平原各州に移動、1,161人が自らの意思で「保護地域」外の指定地に自由移動し1,359人に特別労働許可が与えられ、699人がオンタリオ州の捕虜収容所に監禁。

42人が日本へ送還。111人がバンクーバーで拘留され、105人がへースティングス・パークにある病院に入院する。

そして、約2,000人が「保護地域」外に居住していて、そこに引き続き滞在する事を許可されるが、登録義務があり、危険物を持つことを禁止され、行動に制限が加えられる。

ブリティッシュコロンビア保安委員会報告書-強制移動させられた日系の移動先分布 19421031

強制労働キャンプ     986人
砂糖大根畑 アルバータ     2,585人
マニトバ     1,053人
オンタリオ(女性)     350人
スロカンバレー (スロカンシティ, べいファーム, ポポフ, レモンクリーク)     4,764人
タシメ     2,624人
ニューデンバーとローズベリー     1,701人
グリーンウッド      1,203人
カスロ     965人
サンドン     920人
自活     1,164人
独立産業プロジェクト     431人
特別労働許可     1,337人
強制送還      42人
1942年以前の自主的な帰還     579人
捕虜収容所     699人
バンクーバーにて滞在     57人
ヘイスティングパーク, 病院     105人
計     21,079人

上述以外に、非日系と結婚した人々94名と、それらの子供100名がおり、彼らは沿岸地域に残留を許される。

1944
政府は日系をカナダ国内に分散させるプログラムを発表。カナダに対して忠節を誓う者とそうでない者を分け、忠節を誓わない者は日本へ送還・追放するというもの。

1945
イギリス政府の要請により、日系カナダ人は軍隊に志願する事を許される。キャンプ(収容所)に入っている日系人は忠誠を誓わされ、日本へ送還・追放されるか、ロッキー山脈以東に直ちに移動するかの選択を迫られる。

「ニューカナディアン」紙はウィニペグに引っ越し、編集者のトム生山はカナダ軍に志願し、ケーシー・オヤマが編集の仕事を引き継ぐ。

日系カナダ人150人が、極東で戦うカナダ軍に志願する。

「初めてトロントへ到着後、ベイ・ストリートの砲兵隊募集所へ行き、応募者として入隊を申し入れたが、受付けられなかった。これは1942年のこと だったが、入隊を拒否されてからオンタリオ州の道路工事、砂糖大根農場、きのこ農場などで、強制労働や志願労働者として働いたが、現実は捕虜収容所にいる ようなものだった。カナダ政府は、我々をトロントでの仕事につけようとはしなかった。強制収容所にいる人達には、トロントで働けるような印象を与えたが、 これは我々を出来るだけ東部へ連れて来ようとする「エサ」に過ぎなかった。その後、連邦警察官が私の所へ来て、「まだ軍隊入隊したいか?」と聞く。「う ん」と答えたら、英軍が通訳を捜しているというから「冗談じゃない俺は日本語は出来ない。砲兵隊に入りたいのだ」と言った。そうしたら、彼らは「先ず入隊 してから移動を申し出たら良いだろう」という。然し、実際には入隊して基本的訓練を受けた後、私を含む4名は平原部隊に編入させられた。そして結果的に私 はインドへ送られることになった」(フランク高安 談)

ニューデンバーは、山々に囲まれて静かに横たわっている小さな村落でした。商店は、食料品店が2軒、肉屋、金物店と薬局が各1軒だけ。住宅街は一列に建並んだ平凡だが、こざっぱりとしたくい垣に囲まれ、庭の手入れが行き届いた木造家屋の群であった。

ユキと私は、村人と出逢うが、彼らは私達をじろじろと見ている。私達は彼らに話しかけない。…後になって判ったことだが、彼らは私達が英語を上手に話すこと、更に靴を履いているのに驚いたとのことであった。(「捕虜収容所の子供」より抜粋)

BC州内陸の10収容所の中、ローワー・メインランドに最も近かったのはタシメで、ホープの東南22km、バンクーバーから車で3時間程の地点に位 置していた。タシメには、3本の鉄道、ホープを経由する幹線道路カリブ街道が通じており、防衛のために設定された、日系が居住出来ない「太平洋沿岸から 100マイル(160km)以内」からわずかに外れていた。この収容所は、カスケード山脈に囲まれた600エーカー(243ヘクタール)の農場で、地主に は賃借料が月々$500支払われた。タシメ(Tashme)という呼称は、BC保安委員会の代表者3名、Taylor、Shirras、Meadの最初の 2文字を取って付けられた。(The Enemy That Never Wasより抜粋)

広島と長崎に原爆が投下された後、8月15日に日本は降伏する。

大戦後

1949
戦時措置法が廃止される。日系カナダ人は全面的に市民権を獲得し、カナダ国内を自由に移動できるようになる。

1952
アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校が再開される。この学校が戦後、日系コミュニティに返還された、唯一の建物である。

1955
日本商社数社がカナダに支店を開設:大戦後の本格的な日加貿易、日加経済関係の構築が開始される。

1958
JCCAにより、「月報」第1号が発行される。日英両語の「月報」は沿岸地帯に戻ってきた日系カナダ人の情報源となる。

1964
トロントで日系文化会館が設立される。

1967
カナダ政府はポイント制によって選別する、新しい移民条例を発表する。もはや、人種は選別の対象にならない。この新条例をきっかけに、新しい移住者が、日本から続々と到着し始める。

1976
ケン・アダチ著の「存在しなかった敵:日系カナダ人の歴史」がマッククレーランド&スチュアート社より発行される。この本は日系カナダ人の経験を始めて文章にしたものである。

1977
カナダに移住した、最初の日系1世として知られる、永野萬蔵の百年祭を祝い、日系カナダ人は改めて、日系社会の繋がりを認識する。百年祭に続き、賠償問題を討議する非公式のグループが結成される。

バンクーバーのダウンタウン東地区にある、オッペンハイマー・パークで第1回目のパウエル祭が開かれる。パウエル通りは戦前の日系の故郷である。

日系カナダ人百年祭プロジェクト・チームは、「千金の夢」という日系カナダ人コミュニティの写真史を発行した。発行と同時に、その写真史の巡回展がカナダ各地で開催された。

1985
「これは私のもの:ウェスとその他の人達への、日系カナダ人に関する書簡集、19411948」が発行される。ムーリエル北川と兄のウェス藤原との間の書 簡をロイ三木が編集したもので、この本はカナダ史中の、騒然とした時期を雄弁に物語っている。ムリエル北川は1974年に,ウェス藤原は2000年11月 6日に亡くなる。

8月3日、日系カナダ人戦争記念塔の炎が消されてからほぼ45年を経て,再び点けられる。第1次世界大戦最後の生存者の1人である、元軍曹マスミ三井による点火で特別記念祭が行われる。

1988
4月14日,500人に及ぶ日系カナダ人がオタワの国会議事堂前で補償問題へのサポートを訴えて結集する。多くの著名なカナダ人もこれをサポートし、新任の連邦政府ゲリ・ワイナー多文化大臣は日系コミュニティとの対話を始めるとの声明を発表する。

7月21日、戦時措置法が廃止される。

このコミュニティの基金を管理する為に日系カナダ人補償基金が設立される。  続く10年間にカナダ全国において、コミュニティ・センター等の設備や、文化的芸術的プロジェクト、教育に関するプロジェクトなどを発足。

補償要求運動とその後

1988
9月22日、ブライアン・マローニー首相は、全カナダ日系人協会(NAJC)と連邦州政府間の話し合いの結果、次の補償に関する取り決めが行われたと発表。

その内容は:カナダ政府が、第2次世界大戦中およびその後、日系カナダ人に対して行われた不当行為を認め、戦争措置法によって被害を被った日系カナ ダ人全員に2万1千ドルを支払う事、戦争措置法に従わなかった為に、犯罪者とされた人達の犯罪歴を末梢する事、日本へ追放された日系カナダ人の市民権を復 権する事、日系コミュニティの社会的基盤を再構築する為に、1200万ドルのコミュニティ資金を設置する事、そして、カナダ人種関係基金を設立する為に、 半分はナショナル日系カナダ人協会(NAJC)の、半分はカナダ政府の名において、2400万ドルを用意する事などである。

1997
日本人がカナダに最初に移住してから120年経った事を記念して、8月24日、NAJCの会長であるランディ榎本を代表に、11名の登山者がマンゾウ・ナガノ山に登り、タイム・カプセルを頂上に埋める。11名のうち、4名は永野萬蔵の直接の子孫。

1998
7月4日、新さくら荘シニア集合住宅の開館記念式典が行われる。日系プレースの3つの建物の内の1つであるこの集合住宅はバーナビー市のキングズウェイとスパーリング通りの角に位置する。

ブラジルのサンパウロで開かれた、PANA全アメリカ大陸日系人オリンピック大会に、カナダからこの年初めて4人が参加し、金メダル3個、銀メダル3個、そして銅メダル1個を獲得する。

ケイコ三木が女性として始めてNAJCの会長になる。

1999
3月26日、日系ヘリテージ・センターの起工式がバーナビーで行われる。

8月15日、ビクトリアのロス・ベイ墓地で掛橋グループによって建てられた記念碑が公開される。この記念碑は、ここの墓地で埋葬されている150名 の日系カナダ人に敬意を表するもの。最初の埋没者は1887年1月11日、ヨシタロウ・ムネヤマ。この中には永野萬蔵の最初の妻であるツヤと幼くして亡く なった娘も一緒に埋葬されている。

新世紀

Hapa (hä’pä)  ハッパの定義:俗語 アジア系または太平洋諸島系を先祖に持つ人と異人種間のより出生した子供、或いはその人達が受け継いだ文化遺産。ハワイ語のhapa haole(半白人)より派生した言葉。

2000
6月25日、475アレキサンダー通りに新しいバンクーバー日本語学校並びに日系人会館の開館式が行われる。従来の古い建物は、バンクーバー市より歴史的保存建物と指定されている。
日系人からなるホッケーチームの「チーム2000」は日本の全国少年キャンプで日本のチームと対戦する。成績は2勝3敗で23年後に再び対戦する事を誓う。
9月22日、BC州、バーナビー市にて、日系ヘリテージセンターの公式開館式典が行われる。カナダ日系博物館も同時に開館し、最初の展示は「日系カナダ人 補償をふりかえり、記憶を新たにし、歴史を私達自身のものに」と言うもの。このセンターには、ナショナル日系ヘリテージセンター協会、カナダ日系博物館、 カナダ日系市民協会、日系シニアズ・ヘルスケア住宅協会、ICAS日系テレビ、グラッドストーン日本語学園、そして移住者の会がオフィスを構える。

2002
9月、カナダにおける日系の125周年を祝って、日系ウィーク125が開催される。
日系ホームが完成・開館され、日系プレースの建設計画が完成する。このシニア向けケア付き住宅は、シニアが必要なケアを受けながら独立した生活を営むことを目的としている。

2003
日加修好75周年を迎える

NHKのど自慢・イン・バンクーバーがクイーン・エリザベス劇場にて開催される。

グレーター・バンクーバー地域には、約40,000人の日系が在住しているが、その中約半分は戦前の移住者とその子孫たちで、残りは戦後の移住者たちである。

トヨ高田は、1920年にバンクーバー島で生れ、エスクワイモルトで育つ。彼の調査により、永野萬蔵の冒険的行動が明らかになり、1877年に、カ ナダへ入国した最初の日本人であることが判明する。この発見を高田が文章にて公表したことと、これに関する報道、高田の強い主張により、日系コミュニティ は1977年に日系100周年祭を祝う。高田の調査は、更に日系先駆者達の数々の興味ある冒険的行動や試みを年代記として整理し、日系レガシー(文化・歴 史的遺産)という書物を出版することにより、素晴らしい成果を達成する。トヨ高田は、トロントにて2002年3月12日逝去。